由比敬介のブログ
負け犬
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負け犬

 負け犬はイヤ?早婚願望高まる等という記事が出ていた。
 私は昨年の流行語大賞の発表がなければ、「負け犬」なる言葉を知らなかった。というより、聞いていても、そのまま馬耳東風、意味も知ろうとしなかった。
 ざっと、意味を読んでみると、定めし私など、男の「負け犬」かも知れない。
 だが、負け犬というのは語感が良くない。「30代以上・未婚・子ナシ」を負け犬というのだそうだが、半分は自虐的な意味合いも感じないではない。
「30代以上・未婚・子ナシ」の女性に対して、世間てそんなに冷たいの?
 というのが最初の感想だった。
 私は男なので、女性の「未婚・子ナシ」ということに対する感覚は、正確に摑めない。私自身、これまであまり結婚したいと思ったことがないし、実は結婚と言うことの重要度が、多分解っていない。45にしてこんな事を言うのもどうかと思うが、実際そうだ。
 人間も動物なので、子孫を残すという本能は、恐らくどこかにあるに違いない。そういう意味では、男であっても、もう少し子供が欲しいとか、そういう感情みたいなものがあっても良さそうなものだが、正直、どちらでもいい。いればかわいいと思うだろうし、普通に愛情は持つだろう。しかし、いないからどうだと言うことはない。
 これは結婚に対しても同じだ。好きな女の子がいて、一緒にいられれば、籍がどうのなどというのは、少なくとも私自身の側にはない。つまらん男だと仰る方もおられるに違いない。
 私は、やはりどこか考え方がひねくれているというか、若い頃の何かを引きずっているのか、取り敢えず、伝統や形式というものに対する反発が人よりも強い。
 ネクタイは積極的に嫌いだし、儀式とか、行事に関しては極めて強い違和感を持つ。王政や天皇制は、全く共感しないし、同じテンションで、結婚もどうでもいい。
 つまり、王政や天皇制も、それによる被害が自分に無ければ、敢えて否定もしない。「なぜネクタイをしないのだ」と上司から言われれば、「なぜネクタイをしなくてはならないのでしょう?」と切り返してしまうような男だ。
 但し、ここに書いているのは、私の建前だ。社会的な他社との関係と、どちらが重いかという判断が求められるような場合は前者を優先する。それもまた私のやり方だ。それが正しいと思っている。
 自分の意見を述べることと、自分が社会的規範に従わないことは同じではない。
 妙な言い方だが、受信料を払うからこそNHKに文句が言えるというようなことかも知れない。
 結婚して、子供を作って、というのが人の生き様かも知れない。生まれたからには人生が死への行進であることは、私はいつも言っていることだ。
手塚治虫の「ブッダ」の中にこんなくだりがある。
「人を殺したいと思ったら、自分が手を下さずとも、いずれその人にも死が訪れると考えなさい」
 まさにどんな人生を送ろうと、生と死はどんな人にも共通の事象だ。
 どんなに偉大な人でも、死後に価値を認められてもうれしいことはない(と思う)。そんな人生が、勉強をし、学校へ行き、社会に出て、結婚して、子供を作って、老後をのんびり暮らして、大往生というのと、波瀾万丈のどちらがいいかと言っても、選ぶのは難しいだろう。
 ただ、そういう人生じゃなくても、やはり負け犬では無かろう。少なくてもそう思うことでストレスから解放されるような、それほど重いことではないはずだ。
 ただ、この人のエッセイを実際に読んでいるわけではないので、「負け犬」の本質を私は理解していないかも知れない。
 誰が自分を負け犬と思おうと構わないのだが、反動を期待するならともかく、あまり「負け」という感覚は人にとっていい感覚ではないはずなので、どんなものなのだろうと思った次第。

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