由比敬介のブログ
核武装論をするということ
核武装論をするということ

核武装論をするということ

 しばらく前から、自民党の中川幹事長が「核武装に関する論議をすることは必要」という趣旨の発言をし、物議を醸し、さらに麻生外務大臣が、「ただ闇雲に核はいかんという風に言っているのではなく、きちんとした議論をした上で、なぜいけないのかを明確に・・・」みたいなことを言い、与野党から反発やらなにやら囂しいことになった。
 今日の党首討論でも、阿部首相と民主党の小澤代表の間で、微妙にかみ合っていない議論があった。かみ合っていない最大の理由は、おそらく、小沢一郎もまた、内心では議論をすることを否定するだけの根拠を持たないからであろうと、わたしには思えた。
 それはそうだろう。言論の自由を謳っている国で、議論することを否定しては、言論統制になる。
 核がいけないという背景には、日本の場合、他の国と違って、世界で唯一の被爆国であるという点がある。そこには当然感情的なものも含まれる。「広島」「長崎」は、大阪や名古屋よりも世界では有名かも知れない。
 個人的には、原水爆による死者も、コバルト爆弾による死者も、自動小銃による死者も、死者には変わりないので、ことさら原水爆の危険性を云々する最大の要因は、その破壊力の大きさと、実は、生き残った被爆者の人生という事だと言える。死んだ人にとっては、少なくとも戦争中であれば、死んだ後は一緒だ。
 冷戦時代、「核の抑止力」ということがよく言われたが、では核がなかったら、米ソは戦争をしていたのかといえば、それはあくまで仮定の話なので、核など無くても戦争は起こっていなかったかも知れない。
 だいたい、現実問題として、核を使わない戦争は、ベトナムや湾岸、イラクと、大きいものだけでもいくつも起こっているし、中東やアフリカ、朝鮮半島だって戦争は起きている。全て第二次世界大戦の後だ。
 そもそもアインシュタインが生涯にわたって後悔したように、核爆弾というのは大量殺人兵器で、人類にとっては、文明の進化とともに手に入れたダモクレスの剣なのだ。太陽だって、核融合で輝いているわけで、核エネルギーというのをどう使うかという問題なのだ。
 であれば、根本に横たわるのは「戦争と平和」というドストエフスキーではないが、二者択一の中で人類がどちらを選択するのかと言うことにつきるわけだ。
 悪いことをするやつがいるから、それに対抗する武器が必要、ということと、相手より優位に立ちたいから武器が必要という葛藤の中で、人類は発展してきたわけだが、石が刃物に変わり、槍、弓、銃、大砲、爆弾、核爆弾とより多くを確実に殺すために作られた武器は、単なる悪人向けのものではなく、どちらかといえば、覇権を握るためのものだ。
 今となっては、「武器よさらば」というわけには行かない。しかし、可能な限りそこを目指すことはできるわけで、大きいものから捨てていこうというのがNPT、核拡散防止条約で、テロはそれに屈してはいけないとは思うし、北朝鮮があるいはテロ国家、テロ支援国家なのかも知れないから、それに対してのほほんとしていてはいけないというのも事実だろう。
 実際にミサイルが飛んできたら、しかもそれに不十分ではあっても核弾頭が搭載されていたら、また、原発付近に落ちたら、とか、想定だけはいくらでもできる。
 隣に拳銃を持った男が引っ越してきたら、そして男がおれは拳銃を持っている、といえば、警察に連絡するだろう。しかし、警察がそれでも24時間守ってくれないとすれば、何らかの対抗措置を執るかも知れない。先制攻撃はないにしても。
 等と言うことを、色々考えるべき時、それでも尚かつ核など持たない方がいいし、世界に向けてもNPTの推進を日本は中心になって勧めていくべきだろうと思うが、では、その中で、では日本が核を持ったらどうなるとか、そんなことを議論することをタブーにして一体どうするのだろう。
 仮に、日本の世論や政治家の過半数以上が、核を持とうと思えば、それは国民の意思に違いない。それが民主主義国家らしいから。でも、そんなことになると皆思っているのだろうか?
 ならないように努力しようじゃないか。そしてその中で、堂々と議論をし、その議論を世界に広めていくことが、武力を持たない国が、世界に向けてできる最善のことなんじゃないだろうか。
 そのためにこそ、核はいかんと言い、北朝鮮はもとより、インドにもパキスタンにも、中国にもロシアにもフランスにもイギリスにも、そして何よりアメリカに向かって言い続けなくてはいけないのではないか?

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