教育基本法の改正が、与党の強行採決で衆議院を通過し、野党が審議を欠席したりと、いつもの国会が続いている。そもそも単独過半数を与党が持っている以上、政府案が通ることは、何をやってもその通りなので、ある意味仕方のないことだ。
だが、政党単位で何かを考えるにしても、連立与党という行ってみれば卑怯なやり方で単独過半数を取っている政府与党は、いつの場合でも、国民の真意をくみ取れるはずはない。政党政治なんてやめてしまい、個人単位で選挙も政治も行ってくれたら、今よりは明確な指示ができそうだが、所詮は人間、群れるに決まっているので、うまくいくはずもない。
さて、そんなこんなで教育基本法の改正はきっと通ってしまうのではないかと思うが、問題になっている一つに、政府案の第2条の「5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」という、いわゆる愛国心の涵養といったことがある。国民新党などは、そのものずばり「愛国心の涵養」という文言がないことを反対の理由の一つにしているが。
実際に条文を見ると、ちょっと読んでみただけでは、いいのか悪いのか解らない。確かに以前と変わっているのは解るが、それが新しくなった結果どうなるのかが、実はよく分からない。
上記の愛国心の問題もそうだが、そもそも愛国心という言葉に国民全体のある程度のコンセンサスがない時点で、意味がないように思う。「我が国と郷土を愛する」ことを教育現場で教えないと、自分の育った土地を愛せないのだとすれば、それはよほどその場所の治安が悪いとか、行政サービスが悪いとか、嫌な人間ばかり住んでいるとか・・・・・などと勘ぐりたくもなるが、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061116-00000136-mailo-l31
この記事の記者がいみじくも言うように、国家に対する忠誠とか奉仕といったニュアンスがあるのなら、それはまた別の問題だ。
今、姜尚中の「愛国の作法」という本を読み始めた(食事をするときだけ、ちまちまと読むので、なかなか進まないが)。姜尚中は、テレ朝の「朝まで生テレビ」とかでよく出ている大学の先生だが、実は時々何を言っているのか解らないことがある人だ。
必ずしも考え方を全て支持するわけではないが、愛国心を論理的に組み立て直そうとする姿勢は非常に共感できるし、方法論としてもすばらしい。そもそも愛国心をこころの問題として、論理理屈を排除した観点で決めつけたり、論じたりというのははなはだおかしな事で、あなたの行っている愛国心と、私の言っている愛国心は意味が違うと行った、そういう土俵での会話になりかねない。
実は広辞苑には愛国心という見出しがない。愛国という項目に「自分の国を愛すること」とあって、用例に愛国心がある。
ところが、小学館の大辞泉には「自分の国を愛し、国の名誉・存続などのために行動しようとする心。祖国愛。」という記載がある。問題とされるのはおそらくこの後段の部分だ。
いわば「おまえは国のために体を張れるか?」ということだ。「逃げる」やつは非国民ということになるのか?というお話だ。そして国を愛するということの意味がどこにあるのかを教育が教えるのだとすれば、それは・・・・私には子供はいないが・・・・親たるべきもの、その内容には神経質になる必要がある。
かつての日本国民は国のため、現人神たる天皇のために命をかけて戦った歴史がある。軍隊がある多くの国では徴兵制があり(韓国などでも)、若い時期の一時期を軍隊で過ごす。仮にそこにいるときに戦争が起きれば、命をかけて祖国のために戦う羽目になるわけである。
ここにはまず、「国家とは何か」とか、そこに属することの意味といったことのそもそも論がないままに、そこに生まれ育ったというだけの理由で、命を賭けて戦わねばならない現実を目の当たりにすることになる。
命の大切さを教える反面で、国のためにはそれを捨てるという教育がなされる可能性があるとすれば、単なる矛盾ではなく、自分事としての人生への国の関与ということに、どういう姿勢を取るかと言うことを考えなくてはならない。
よく日本は平和ボケなどといわれることがあるが、もし戦後の日本が平和国家としてぼけるほどの平和を謳歌しているのだとすれば、いい意味で、その平和ボケの根幹を世界に広めていくことの方が重要だ。
確かに北朝鮮や、いくつかの独裁的な国家は、自身がそこに住んだこともなく、メディアなどの情報を通じて知るしかないが、特定の個人やその周辺の意向で、エゴイスティックな国内、国外向けの政策がとられた場合、いかにしてそれに対抗するかというのは「平和ボケ」には頭の痛い現実ではある。
だが考えてみると、中・近世のヨーロッパだって、ついこの間までのソ連だって、ってみれば同じような環境の中から民主政治を勝ち取ってきたのであり、地域差で民主化は時間がかかるのだ。いずれはそれらの独裁国家だって、政治が変わるだろう。
愛国ということが、愛地球と同義語になることを願ってやまない。