http://release.center.jp/2008/10/0102.html
に、ノシ、wktk、orz、kwskの認識率というのが出ていた。
orz以外は知らない人が多いが、orzは知っている人の方が多いのだ。
もう、最近のこういうのはだめだ。ついて行けないと言うより、最初から付いていこうともしていない。更に言えば、ほとんど初見だ。
毎日パソコンの前に12時間は坐っている生活をしていて、当然、ネットはつなぎっぱなしだから、ブラウザは常に開いている。メールも随時受信している。それでも尚、見たことがなかった。
いや、見たことはあったのかもしれない。だが、目に入っていなかった。
ちなみに、kwskは「くわしく」 wktkは「わくわくてかてか」、orzは「落胆」、ノシは「手を振る仕草」を表すのだそうだ。orzは確かによくできているし、ある意味世界共通で仕える可能性だってあるが、ノシはどうしても見えない。
kwskは、何となく見た段階で解った。KY以来、ひらがなの頭文字で何かを表現することがはやっているのは解るが、共通認識を持つのはなかなか難しい。「わくわくてかてか」は音から確かに胸躍る様子は伝わってくるが、wkの「わくわく」はともかく、tkの「てかてか」は、想像もつかなかった。
ほとんどが2チャンネルから来ているようだが、2チャンネルをあまり見ないのでよく分からなかったというわけではなさそうだ。他のブログなどにあっても、たぶん無視をしていただけだ。
まあ、1~2年もすれば、自然淘汰で使われるものと消えていくものが別れるに違いないし、それでも尚残っていれば、目に付くから覚えるだろう。
かつての若者文化から残った言葉も多くあるように、これらの表現も、すべて消えていくわけではなく、常用されるものは常用されるだろう。多くの顔文字は、インターネット以前から使われ、今でも残っている。自分ではほとんど使わないが、確かによくできているものもある。
と言って、やはりすべてが残るわけでもないのは自明のことだ。
kwskと打つより、詳しくと打った方が、少なくとも日本語キーボードでは打ちやすい。そしてorzよりも面白くないから、それほど長く使われるとは思えない。
さて、そんなことでふと思い出したのが、爆笑問題が司会をしている何かの番組。漢字がしりとり方式で次々に出てきて、出演者がどれほど読めるかを、競っているコーナーがあるが、時々見る。頭文字が出るので、類推できるものが多いが、それにしても、いつも思うのが、そもそもカタカナである外国の言葉や、すでに日常的には使わない動物や昆虫等の漢字。
国名などは略として、便利な面はあるが、白と書かれてベルギーと解る人がどれほどいるだろうか?瑞(スウェーデン)、諾(ノルウェー)等。確かに、日、米、中、韓、露、英、仏、伊、独、墺、蘭、西、葡、加、印、台、くらいまでは、ある程度有用かもしれない。だが、ヨーロッパでも「希臘(ギリシャ)」「波蘭(ポーランド)」「勃牙利(ブルガリア)」「羅馬尼亜(ルーマニア)」など、きっと読めないし、あまり読める必要もなさそうだ。「濠太剌利(オーストラリア)」「墨西哥(メキシコ)」「伯剌西爾(ブラジル)」「秘露’(ペルー)」などはどうだろう。ベトナムの越南は、何となく歴史の知識でどうにかなりそうだが、比律賓、新嘉坡、柬埔寨などはどうだろう。前の二つは音で解る気がするが、最後のカンボジアは、たぶん読めない。
最近はネプリーグなど、漢字の読みを答えたり、漢字検定がはやったり、漢字ブームといえる現象がしばらく続いているように思える。
その反対に、漢字は止めてしまおうという運動も、昔からあるらしい。
今更漢字を止めては、コミュニケーションがとても大変になるという意味で、単純に仮名文化に向かうことは、よっぽどのことがない限りあり得ないと思うが、いろんなことを考える人がいるのだなあと感心する。
毎日、地球のどこかで言語は消失し続けているという話をどこかで昔読んだ。それくらい言語の数は多く、それ一つ一つが実は文化なのだといえる。
英語がグローバルスタンダードであることは間違いないわけだが、地球の言語が英語に統一される日が来るのかな?とも思う。遠い未来に。だが、ニュアンスまで翻訳できるようなポータブルの機械が発明されれば、その必要もなく、母国語で世界のどこでも旅行できる日が来るかもしれない。そうなれば、日本語が無くなることもないだろう。
言葉や文字は、常に機能的なコミュニケーションツールであると同時に、文化や感性と大きく結びついている。女子高生にしか通用しない言葉があっても、女子高生とおじさんがコミュニケーションをとれないわけではない。
ネット文字もまた、漢字と同じなのだな。ただ漢字には歴史があり、ネット文字にはそれがないという違いだけなのだ。orz なんて、まさに象形文字なわけで、すばらしいと思う。
だからといって、それを使いこなせなければならないわけでもない。そういう許容の文化(使う側に対しても、仕えない側に対しても)というのが、平和ということなのではないだろうか。