由比敬介のブログ
言葉のお話し
言葉のお話し

言葉のお話し

 時々テレビで、例えば有名なところでは「情けは人のためならず」の意味は?みたいな特集をやっていることがある。昔から使われてきた言葉の誤った使い方や、忘れられていく言葉についての特集だ。
 昨日、故事成語についての新書を本屋でぱらぱらとめくった。「束脩」などという、私が今までお目にかかったことがない、あるいは見ていても覚えていないような、少なくとも意味の分からない言葉も載っていた。束ねた乾し肉から転じて、塾などの入門時に先生宛に持って行ったお礼の表に書く言葉だという。
 多分現在も使っている人もいるに違いないが、もらった側がこの言葉を知らない場合も少なくないのではないだろうか。今この文章を書いている時点で、Atokはこの言葉を変換してくれなかった。それだけ使われることが無くなった言葉なのだろう。
 世に、死語という言葉がある。まさに使われなくなった言葉だが、最近では、かつての流行語が、時代を経たことによって古びたために使われなくなり、「そんなの死語だ」みたいに使われるケースが多く、前出の束脩は「死語」とはあまり言われない。むしろ、「ナウい」とか、「いかしてる」とかそんな言葉に適用されるのではないだろうか。ところが、数十年を経て「もーれつ」などという言葉は「猛烈」とは別に、復活したりしている。かつての流行語が、必ずしもそのまま消えてしまうというわけではないという例だ。
 ただ、例えば今の「もーれつ」を、40以上のおじさんが「うーもーれつ!」などとメロディを付けて言えば、「ださい」わけで、これは一つ言葉だけの問題ではないのかも知れない。
 この「ださい」という言葉は、使われ初めて相当長いように思うが、既に日本語として完全に定着している。ほんとかどうかは知らないが、「だ+埼玉」という辺りから来ているという話を聞いたことがあるが、埼玉出身者としては複雑なものがある。
「うざい」などというのも、広辞苑の第6版くらいなら載るかも知れない。
 また「ちょー」何とか言うのも、考えてみれば、「超人」「超高層」などの「超」を他の言葉にくっつけただけで、新しい言葉とも言えない。
 傾向としては、単語を縮める、特殊な言葉を付けることで後に続く言葉を強調する「ばり」とか「げろ」とかだが、こんなものは「くそ」とか「ばか」とか昔からあったので、実はバリエーションに過ぎない。ただ、こうして言葉は増えたり減ったりしながら、結局はコミュニケーションツールとして、どこかで共通認識を持たなければ意味をなさない。
 そもそも「束修」が、入塾の礼物の表書きだとしても、入会金を銀行で振り込んだり、「お礼」という言葉が一般化してしまえば、あまり有用というわけでもない。まあ、伝統もここまで稀少になれば、逆にかっこいいと言うこともあるかも知れないが。
 
 若者が若者である特権は、「大人」とは違う自分を認識することで、「大人」はださかったり、昔であれば、大人は「汚な」かったり、常に世代間の確執があるのは、人類という種が全体的に持つ特質に違いない。その中で若い人は若い人だけに通用する言葉を持ち、次の世代ではその言葉も古臭くなる。そしてその中で社会が認知した言葉が新たに語彙として辞書に加わる。
 よく、日本語の退廃みたいな事を言う人がいるが、所詮古文で習うような言葉は今の世の中で通用しないのと同じに、変化してこその言葉である。あらゆる事象が変転していく世の中で、言葉のみを、昔実への美的礼賛とともに、特別視することの方が、困難なのだ。もちろん、困難に立ち向かうことは悪いことではないので、それ否定するわけではないが、「諸行無常」を歌う平家物語や、そもそも仏陀の昔から、あらゆる物は移りゆくのだ。

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