由比敬介のブログ
中国
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中国

 中国に親しみを持つ人が減ったという統計が出たと、ニュースでやっている。その理由を、最近の中国とのぎくしゃくした国際関係や、先日のサッカーの日本代表に対するファンの態度に置いている。
 まあ、あのサッカーの後の映像を見れば、愉快な思いをする日本人はほとんどいないだろう。しかし、60年前の戦争を今まで引きずるのは多少しょうがないとしても、当時0才の人が60才になろうという時代に、過去の戦争を引き合いに出して「日本帝国主義」みたいな表現をするというのは、いったい中国ではどんな教育をしているのだろう。
 靖国参拝ということを誰もが象徴的に扱うし、小泉があそこまでこだわるのは、性格だろうか?そもそも政教分離というのは一国の首相には適用されないことなのだろうか?そしてその靖国問題で中国が不愉快な思いをするというのもまた、象徴的である。どれだけの中国人が、そのことを解って不愉快になっているのか非常に疑問だ。
 戦犯戦犯というが、東京裁判で有罪にされただけで、彼らだけに太平洋戦争の責任があったわけではないだろう。
 戦争がいけないというのは子供でも知っている。多分子供に解らないのは、戦争がいけないのに、いい大人が何で戦争をし、しなくても、いつ起こってもいいような準備をしているのかという事ではないだろうか。
 中国の油田開発の問題は、あたかも、山間の垣根のない隣同士が、温泉が出そうなのはどこかを探っているようなもので、互いが自分の利益しか考えないということに問題があるし、そんなことがいけないというのはやはり子供の時に教わる。
 潜水艦の問題だって、知らないうちに隣の家の庭で何かしてましたみたいなものだ。その程度を「ミス」しているとしたら、とんでもない低レベルの海軍だ。
 こういうさや当ての試合みたいなものが国際関係ならば、人類はいったいどこへ行こうというのだろう。
 人種や民族、肌の色、生まれによる差別、これらは人間が生来持っている感覚なのだろうか?よく韓国で事件があった時に、正体を無くして泣き叫ぶ家族の映像が映ることがあるが、日本では余り見かけない。これは民族性の違いなのだろうか?私はそうは思わない。
 人種や民族などの違いがどうであれ、そんなものはきっと地域差だ。雑煮の味が違うのと、感情の表現方法が違うのは、どこに住んでいるかというだけの問題だ。
 もちろん、熱帯に住む人たちと、北国の人たちが、同じ表現をするとは思えないが、実はそれぞれに家風があるように、それぞれの地域によって、あるいは国によって何事も違うのだ。ところが、違わないことがある。
 それは同じ人類だという点だ。
 映画「猿の惑星」で、「猿は猿を殺さない」というキャッチフレーズがある。これは猿を導き、地球の主足るに導いた指導者の決めた律法だ。
 人は生きるために生物を殺す。食べるためや、身を守るためだ。実際には楽しみのためや、単純に嫌だから殺すと言うこともある。一概に食物連鎖の一部とは言い難いが、いずれにしても、人間は人間を殺さない。これが不文律であるはずだ。
 でなければ、常に自分の命の危険と共に生きるなど、知恵ある猿が容認できるはずはない。
 鯨やイルカは知能が高いから殺すなという思想がある。鯨は安い肉で、給食でも食べていた世代としては、意味の分からない論点だ。知恵という点から行けば、チンパンジーだって、犬だって、猫だって、あるいはマウスだって、人間が勝手にレベルを付けているだけで、知恵がないわけではない。
 あたかもこの論理は、IQが高い人間の方が低い人間より価値があるという理屈に結びつきそうでとても嫌だ。例えば、日本ばかりでなく、犬はかわいいペットだ。当然、犬を食べるというのはそういう人たちには、考えられないだろう。しかし、食肉牛を育てている人たちだって、十分に牛に愛情を持っていたりするものだ。でも牛を食べることに異論を挟むのは宗教上で食べられない人達くらいだろう。
 人は人を殺さない、これが第一だ。
 そのためには人は人と争わない事を目的とし、そのためには相手を尊重するところから始めなくてはいけないだろう。だがそれは、相互に尊重が成り立たねばならない。
 
 人類が種として真に霊長と呼べるようになるのは、そこの部分が進化しなくてはならないのだろう。今はまだ、種としての人類はかなり野蛮だ。
 

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