しばらく前に読んだJ.P.ホーガンの「揺籃の星」の下敷きになった、学説を主張していた学者がヴェリコフスキーだ。
聖書にあるような天変地異などを、木星の一部が飛び出して彗星になり、それが地球とニアミスをしたことで起こったとする説である。その後この彗星は金星軌道に収まったとする。つまり、金星は元木星の一部だというのだ。
ホーガンのものは当然小説で、ホーガンなので、基本的にハードSFだ。しかしヴェリコフスキーは生涯をその説に捧げたようである。出版されたのは1950年頃で、大ベストセラーになると共に、最初に刊行した出版社は、圧力に屈して出版権を他社に譲渡したほど、すさまじい攻撃があったらしい。当然著者にもあったはずだ。有名なカール・せーガンなども一貫して反ヴェリコフスキーだったようである。
普通に考えれば、ここまで荒唐無稽であれば、相手にしないというのが正しい姿勢のような気もするが、相手が大ベストセラーとなれば話は違うようだ。「ハリーポッター」が、実際の歴史書として出版されて、学説として流布するようなものかも知れない。
しかもヴェリコフスキーの著作は、簡単に書いた冒頭の内容でさえ、天文学、物理学、歴史学、聖書学など、かなり広範囲に影響を及ぼしている。
内容を読んだわけではないが(翻訳は「衝突する宇宙」で、3500円もする)、70年代に流行ったUFOや不可思議現象・・・社会思想社とか、角川文庫当たりから出ていたエーリッヒ・フォン・デニケンの著作のような印象も受ける。
但し解説を読むと、このヴェリコフスキーなる人物はかなりの博識で、緻密な理論の積み重ねを行っているらしい。科学者などのにとってはこの当たりがタチが悪いと言うことになるのだろうか。
しかし、データ的なものを抽出すると、当時の科学的な常識とは反していた幾つものデータが、実はヴェリコフスキーの方が正しかったものもあるようだ。
この著作がベストセラーになったもう一つの背景は、聖書の記述を真実として説明しているところにあるらしい。
歴史学者がそれは年代的に正しくない!と言っても、そもそもその年代の比定が違っているというところから入っているらしいので、そうなると、そう言った歴史学からの反論は意味をなさないことになる。
このヴェリコフスキー理論が正しいのか間違っているのかと言えば、普通の教育を受けてきた私などは、「まあ、間違ってるんだろうな」と思ってしまう。荒唐無稽という言葉さえ使いたくなる。
ただ、ガリレオだって、ケプラーだって、アインシュタインだってそうじゃなかったか?という疑問も起こってくる。どうもその当時の科学界からの反応を読んでいると、あたかも切り捨て御免的に、頭から「怒って」いたような印象を受ける。すなわち、「どこがどう間違っているかなど、いちいち指摘するのもばからしい」と言うことか。但し、「世間がこれだけもてはやすというなら、黙っちゃおれん」と言うことのようだ。
だが何か釈然としない。3,4千年前に地球と、これから金星になる星がニアミスをしたと言うことが、信じられるかというと、ハリウッド映画ならという感じはある。だが、それでは最新の宇宙論の多くが、信じられるのかと言えば、同じようなものだ。人気のあるホーキンスなんていう学者は、宇宙が生まれる前は時間が虚数だったなんて言ってる。そもそも「虚数」という概念を人が感覚として捉えることは不可能だから(理屈は解るが)、それを信じろと言っても難しい。
仮にヴェリコフスキーの理論が、金星の現状(例えば金星の公転軌道だけがどうして他の惑星とは逆なのだとか)などを、今の科学よりも上手く説明できていることが仮にあるのだとすれば、頭から否定するのは、ガリレオの宗教裁判と大差はないような気がする。
あるいはホーガンの意図はそんなところにあるのかも知れない。小説によってヴェリコフスキーの理論を現代にもう一度再浮上させ用なんて言う。なぜなら、SFが荒唐無稽でもいいというわけではないからだ。少なくとも、ホーガンという人は、科学的な基礎の上に作品を構築する人だ。それがフィクションであろうと、嘘を書きたいとは思っていないだろう。幾ばくかの真実をヴェリコフスキーに認めたからなのではないのか。
ヴェリコフスキーという人は25年ほど前まで生きていた人だ。
頑なに自説を守り通したようだ。それが正しいのかどうかは別の問題だが、同じ事が科学者側にも言えそうだ。いろいろなことが、積み重ねられてきてできあがった現代科学に真っ向から対峙し、荒唐無稽に一見見える学説は、恐らく今でも同じような評価や扱いを受けるに違いない。
昨年のイラクで最初に人質になった3人の日本人に対する「自己責任」という一斉批判みたいなものと同質の何かを感じないではいられない。これは実は、同和問題などの、差別を生み出す人の意識のあり方と、非常によく似た面を持っているのだと思う。
多分、ヴェリコフスキーの理論は正しくない。これがとても考えやすい。しかし、科学というものが、実験と検証、あるいは数学という手順がない限り、論争の台にも乗らないとしたら、寂しい感じがあるな。