由比敬介のブログ
竹島の問題
竹島の問題

竹島の問題

 島根県が竹島の日を制定したことから、竹島ばかりでなく、日韓の間がぎくしゃくしている。
 尤も、その多くは韓国側の強烈な反応とそれに伴う言動が中心だ。
 私は日本人だし、日本で教育を受けてきた。しかも戦後の生まれで、戦争には、前の大戦も含めて基本的には反対の立場だ。すなわち、日本の植民地支配とかの経験もないし、恐らく気質も日本人的だ。それを前提で、思うことを書いてみたい。
 今回の件で、いくつか資料を見たり、様々な人の意見を読んだりしてみたが、竹島が日本と韓国、どちらの領土かという問題は、私には分からない。1905年に島根県へ組み込まれたという時点で、確かに日本の領土だと主張する日本の方が、国際法上は当を得ているとは思う。だが、当時の日韓の関係から、韓国が領有を主張できなかったというのも、意見としては解らなくない。
 ただ面白いのは、韓国は国を挙げてこのことを問題視し、例えばぺ・ヨンジュンの映画制作会見などでさえ、その意見を聞こうとする。そして、もし反対のことを言おうものなら、非国民扱いさえしかねない韓国の様相であり、各自治体がそれを契機に友好的な提携を破棄したり、大統領までがそれを追認する声明を発表する。これをして日本の侵略だと言い切ってしまう辺りがどうも解せない。
 しかもこの問題はかねてより、国際司法裁判所に委ねたいという日本側の意向を、ずっと韓国が無視し続けている状況らしい。当然、この家は俺のだから、何で裁判の必要がある?という姿勢なのだろう。そういう意味では、客観的に見て、日本の方が大人の態度ではある。
 しかも、竹島周辺の漁業に関しては現状は協同でという取り決めがありながら、実行支配している韓国軍によって、日本はそこで漁をすることができない等という話を聞けば、公園を牛耳るジャイアンに対し、のび太が自宅で、あの公園はぼくのだ宣言をしているように見える。日本の国旗を燃やしたり、指を切って血で抗議をしたり、韓国の様々な肉体的、感情的抗議が目立つ。
 日本人はと言えば、首相の鷹揚とも無関心とも取れる態度が象徴するように、単なる島根県の問題、しかも漁業関係者のという雰囲気が強い。あるいは、中国や韓国の「植民地」とか「侵略」というキーワードによって、どことなく政治問題に対して及び腰で、あまり関わりたくないという国民の意識というのがどこかにあるような気もする。
 
 この問題の落としどころは、いずれにしても日韓双方が領有を主張している以上、お互いがどんな根拠をもってそういっているにせよ、最早話し合いで決着が付かないのであれば、国際的な司法の手に委ねる以外に方法はない。韓国がそれを拒否するというのは国際社会の一員として、正しい態度ではない。確かに韓国側の司法に対する危惧も解らないではないが、司法の公平性を信じないのであれば、あるいはその判断を尊重できないのであれば、国際的な協調や協力関係が保てるはずもない。もちろん、どんな時代やどんな場合にも、完璧なものなどない。司法が絶対間違いを犯さない等という保障もない。しかし司法がいかに理不尽に見えても、そこで不正があるあるなら別だが、国内であれ国際的な問題であれ、そこを頼らざるを得ないこともあるのだ。
 竹島の問題は、まさにその典型のような気がする。
 のび太とジャイアンだって、しずかちゃん辺りが出てきて調停してくれた方が上手く収まったりするのだ。
 北朝鮮はああいう国家だからやむを得ないとしても、韓国とは日本は仲良くできるはずだし、過去の歴史がどうあれ、これから先は仲良く、平和的にお互いのプラスになるような形で、あるいは両国にとって極力不幸でない妥協点を見つけることで、やっていけるように思うし、やっていった方がいいと思う。
 こういう言い方は良くないかも知れないが、たかが島一つの問題で、国民全体が互いに反目するとしたら無意味なことだ。そしてそれはおまえらのせいだ、俺たちは悪くないという形で主張しあっても答えなど出てくるはずもない。それは、小さな個人から国家間の問題まで、基本的には同じだ。
 先日アインシュタインについて書いたが、人類がこの地球を飛び出し、宇宙全体に行き渡るなどと言うSF的なお話しはないだろうし、仮にあったとしても遙かな未来だ。それが実現するためには平和な社会がある程度実現しなくてはいけないし、地球というこの一個の星の中で、様々な対立や、意見の食い違いを乗り越えていこうという意志を人類自身が持って行かなくては到底実現などおぼつかない。
 個人的にはこうだ。竹島を日韓の友情の証として共有財産とし、漁業及び観光など、各方面で友好のシンボルとなるような形で位置づける。司法の判断などいらない。過去の不幸な出来事は出来事としても、未来はどうしていかなくては行けないのかを見ながら生きていくこと、そしてそこでは、マイナスではないプラスになる方法を常に模索していく、アジアの一地域からでも一つのそういうことができるのであれば、それは北方領土でも可能だろうし、尖閣諸島だってそうだ。
 いったい、世界の国家は、国家という枠組みで、同業他社との争いをしている資本家みたいな競争を続けることが、国家の永久的な幸福に繋がると皆思っているのだろうか?だとしたら世界政府などと言う人類としてのまとまりなど夢のまた夢だ。寂しい限りではないか。
 

1件のコメント

  1. 機動戦士ガンダムSEED

    ドラえもんの喩えは素晴らしい発想だ!
    だがいつも、空き地はジャイアンが我がもの顔に牛耳っているだよね<苦笑。

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