今文庫で「大宇宙・7つの不思議」という本を読んでいる。監修をしている佐藤勝彦氏はよく宇宙論の本などを書いている先生だ。
その中で1章を割いてETに言及している。ET(extra-terrestrial)。スピルバーグの映画で有名になった地球外生物を指す用語だ。この言葉がいつ頃からあるのか知らないが、陸生生物(terrestrial)のエキストラという、しゃれた言い方に思える。宇宙人を表すもう一つの用語は同じ映画から「エイリアン」だが、こちらは元々外国人とか異邦人という意味だ。外国人も異邦人も同じ意味だが、何となくカミュのせいもあるのか異邦人という言い方は雰囲気がある。
ところが、ちょっと話が脱線するが新明解国語辞典を見ると異邦人は「(韓国・中国などを除く)外国の人」の意の漢語的表現。とある。これは、昔は日本と中国を除けばその先は皆天竺だというところから、異邦人は既知のアジアを除くということになるようだ。
エイリアンは例えば、スティングの「Alien in NewYork」のように、やはりForeignerとは違う響きを持っている。日本語で言う外国人、あるいはForeignerは、あくまで外国の人であり、政治的というか地理的に別の国の人間を指すが、Alien、または異邦人は、国家と言うよりは部外者というか、その土地のものではない「余所者」といった響きがある。だからこそ、SFの中では宇宙人のことをエイリアンというのだ。
ところが英語では宇宙人と引くとspacemanは別として、「a visitor from (outer) space」とか、「little green man」「saucerman」等、沢山の言い方がある。
さて、これらの言葉の中で、ETという表現だけが、どちらかと言えば、知的生命であることを必ずしも要求しない。他の表現はどちらかというと、動物以上の知性は最低備えた生物というニュアンスが強い。しかし、ETは生命体であればよく、知的なETの場合には「extraterrestrial intelligence」という表現がある。
宇宙論で異星の生命体を指すときは、どちらかというとそれほど知的なものを期待していない。むしろバクテリアのような、これくらいだったらいるかも知れないというレベルの話題が多いように思う。
いかほどUFOの目撃例があり、どれほどNASAが秘密主義であろうと、確かに宇宙人の証拠は非常に眉唾だ。
そんな中で、エンリコ・フェルミが提唱したパラドックス「こんなに沢山の星があって、きっと惑星もたくさんあって、生物も沢山いて、知的な生物もその中には沢山いるだろうに、どうして宇宙は沈黙しているのか?」これは、裏返して宇宙人を信じる人、あるいはUFOが異星からの乗り物だと信じる人たちにとっての傍証みたいなものだ。
よくこういう本に載っているドレイクの方程式というのがこの本にも載っているが、この銀河にどれほどの知的生物が、現在存在しているかを計算する方程式だが、昔からこの妖しげな方程式は何なのだろうかと思うのだが、変数のほとんどが曖昧で、自由に代入することができ、入れ方によっては、とんでもない数字をはじき出せる。当たるも八卦当たらぬも八卦のような方程式だ。
最近では、人間原理もあって、地球は宇宙の中の、極めて特殊な星であるという、宗教家が聞いたら我が意を得たりとばかりに喜びそうな考え方をする科学者も多いらしい。これとて否定するのは難しいが、夜空に輝くのが全て星で、宇宙には数千億の恒星を含む数千億の銀河が存在するとすれば、この地球をそれほど特殊と考えることができること自体不思議で仕方がない。我々が実際に観測で知ることができるのは、現在の宇宙論を信じる限り、130億光年という彼方ではあっても、その光だけ、そしてそれは130億年も前の光でしかない。せいぜい解ることといえば、地球の表面から太陽系。それだって多くは理論的な想像に過ぎない。ここ数十年の間に、何度も書き換えられたりしている。
そんな中で、我々人類を特殊と考えるのは、「俺が宇宙の中心だ」というのと同じくらい、哲学的には真実であっても、科学的には怪しい。
また、SFの読み過ぎかも知れないが、生命には水がないといけないとか、ずっと遠くへ行けばどんな世界があるのか解ったものではない。考える金属とか、無機質の生命体だって無いとは言えない。もちろんそんなものは机上の空論だが、宇宙の始まりに、あれだけ奇天烈なことを考える科学者が、どうしてもっと新規なことを言い出さないのかと不思議でならない。
なぜ宇宙は、我々の脳の大きさに比べてこんなに大きく、そして長命なのだろう?
興味は尽きない。