由比敬介のブログ
ゲームの有害図書指定
ゲームの有害図書指定

ゲームの有害図書指定

「グランド・セフト・オートIII」というゲームが3月に神奈川県で有害図書指定された。当該ゲームが残虐で、青少年に悪影響を与える可能性があるという理由だ。神奈川県知事の松沢氏のブログには批判が相次いだという。
 残虐シーンのあるゲームや他メディアと、犯罪などの相関関係は、私は決してないとは思わない。当然ある。それを見ていなかったら、犯罪を起こさなかったケースというのもきっとあるに違いない。それは、レイプもののアダルトビデオを見たことで女性に乱暴をはたらく人間が、この世にはいると言うことと同じだ。
 ただ、だから行政が短絡的に規制をすればいいというお話しとはまた異なる。
 今回の規制は、非常に限られた人たちが話し合いをし、販売元にも意見も聞かず、規制をした。あたかも昭和30年代40年代の、漫画を悪書として片付けたPTAに似ている。概して「健全」な大人は、自分の価値判断で悪いと思ったものを見せたがらないものだ。もちろんそのことにはきちんとした理屈もあるし、正当性もある。だが、そちらが正当性があるyから、ではそれを子供にも自由に見せることを是とする側に正当性がないかというとそうではない。
 そもそも残虐性があるかないかの判断を、誰がどのようにしてするのかと言った点が、常に曖昧であり、それはどんなに事細かに何かを決めたとしても、曖昧の域を脱することはない。私は基本的に戦争映画が嫌いだ。但しこれは近代戦争の映画に限る。例えば、戦国時代を描いた映画で、たとえ何人が死のうと、比叡山が焼き討ちされようと、今という視点からは、リアルな残虐性を読み取ることが私にはできない。それは、時代劇で将軍やその血筋が、悪人を何人切ろうと、最期のシーンでは死体がきれいに消えて無くなっているようなもので、虚構世界の1シーンでしかないからだ。しかし、第2次世界大戦の映画などは時として、残酷に思えることがある。そしてこんな感覚はまさに個人差であり、私はこの感覚を全ての人に敷衍しようとは思わない。
 GSO3というソフトを私はよく知らないが、人殺しが自由にできるようなソフトらしい。極端なことを言えば、殺人が罪になるのは現実の世界でだけだ。このことは普通の人は知っているし、それ故、残虐な映画やゲームによってその残虐性を現実の世界に持ち込もうなどとは普通は考えない。
 だが、高倉健や菅原文太のやくざ映画を見たばかりの人たちが、あたかも自分が健さんなどになったかのように、映画館を出た後に肩を聳やかせて歩いている等という話を昔はよく耳にした。人間にはそういう側面もある。また、先日逮捕された自殺サイトで知り合った人を殺害して、自分の性癖を満足させていたなどという男がいるように、何かのきっかけで人を殺したがっている人もいるのだ。
 確かに、残虐性を秘めたゲームは、そういった可能性を内在した人に、そのような個性を助長する可能性は十分にある。だがこれは、青少年だからではなく、大人だって同じだ。人間は成長したからみんな普通になる等というのは全く妄想だし、お金や、たわいもない理由で、毎日のように殺人事件の報道があるが、そのほとんどは成人の仕業なのだ。
 もちろん、殺人をテーマにしたゲームなど、規制すべき内容を持ったものは無いわけではないだろう。それはテレビでの暴力シーンなどでもそうだ。だがそこには、健全な識者然とした数人の大人達が、あたかも社会をただすかのような形で簡単に決めてしまえるものでもないし、その規制が犯罪を必ずしも減らすわけではないことを認識すべきである。ソフトは暴力を助長する場合があるのと同様に、そのことで暴力的な衝動を解消させ、現実の暴力に向かうのを防ぐ可能性も秘めているからだ。
 煙草を吸ってはいけないと言われれば吸い、酒を飲んではいけないと言われれば飲み、エッチな本やビデオを見てはいけないと言われれば見る、それこそが青春と思っている人たちもいる。そして年経た頃、自分の過去のそういったことを得々と語る大人は少なくない。褒められたことではないが、むしろこれは健全なので、「若いころ人を殺してしまって・・・」なんていう自慢をする人はいない。
 規制をかけるなら、有害図書という形ではなく、アダルト商品のように、ある程度明確なラインを引いておいた方がいいような気はする。個人的には、行きすぎた残虐性は性器を見せることと比較してもよろしくないようには思う。
 日本も、この暴力ということに関して、社会的にもっと議論が高まっていいと思うが。

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