由比敬介のブログ
作る会の教科書
作る会の教科書

作る会の教科書

 まず今日のエントリーは、最初に書いておかなければいけないが、半ば無責任な書き込みである。その理由は、私が扶桑社から出ている「新しい歴史を作る会」の教科書を、きちんと読んでいないということによる。
 さて、私は杉並区に住んでいる。
 先日、杉並区役所の前で、上記の教科書を選定しようとした教育委員会かな?の会議に抗議する人が沢山押し寄せて、選定が延期になったことをニュースで伝えていた。
 この教科書は、文部科学省から認可されているが、中国や韓国から批判の的になっているあれだ。
 現在はこの教科書、書店で購入できる。平積みになっていたりする。扶桑社はそれだけでも出版した意味があるのかも知れない。
 
 問題は、この教科書が、戦争(先の大戦など)を美化しているとか、皇国史観的な内容であることが言われているからであり、少なくとも多くの人が、この教科書からそれを読み取っていることは間違いない。あるいはこの教科書を執筆した中心人物でもある西尾幹二などのテレビでの発言などを見ていると、そういった見方をされるのも、一面、むべなるかな、と思わざるを得ない。私は「国民の歴史」も読んでいないので、実は西尾幹二についてそれほど知ってはいない。
 太平洋戦争が、日本にとって大東亜共栄圏という非常に前向きな意図の元に始められたとしても、侵略戦争には違いないわけで、それは糾弾されるべき性格を持っている。だが同時に、西洋の列強がそれまでに推し進めてきた植民地戦争も、同じようなもので、実はこれは、人類が生まれて以来、権力を欲しい人間と、権力をあがめ奉る人間という図式が、時として非常に安定しているために起こることだ。
 あの世界大戦を戦ってさえ、いまだに戦争は世界中のどこかで起きている。その学ばない人類をやっぱ戦争はいけないという風に学ばせることが、歴史の持つ一つの大きな意味のような気もする。
 何となく、日本人は東京裁判とその後のアメリカナイズされた歴史の中で、それ以前の日本に対して自虐的で、酷な見方を、戦後はしてきたというのは解る。それは必要以上にそうだったに違いない。中国や韓国の日本に対する感覚も、多分行きすぎている。ことに靖国問題などは、行きすぎの例のように思える。
 しかし、ではよその国の反日感情に根拠がないかと言えば、決してそんなことはなく、それなりのひどいことをした歴史があるに違いない。
 原爆を落とされた広島や長崎の人たちは、原爆が戦争を終わらせた有終の兵器のように語る一部のアメリカ人を、気分よく見られるはずはない。確かにそういう側面がないわけではないとしても、あれだけの殺戮が必要だったはずもない。
 何事もそうだが、バランスというのが必要だ。仏教で言う中庸っていうことかな。作る会の教科書に対する、市民運動みたいなものを見ていると、やはりそのバランス感覚というのは、どこか保たれていないのだろうなという気がする。今度読んでみよう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です