由比敬介のブログ
手紙
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 郵政民営化の話の中で、自民党の議員の一人が、この先手紙が無くなるというような話をしていた。
 メールの普及ばかりではなく、そもそも手紙を書くという習慣はどんどん減っている。恐らく年賀状もそうだ。メールで「あけおめ、ことよろ」で済んでしまうのが実情だろう。
 もちろん、自筆の手紙を尊ぶ人もいるし、これからも多くの人がそうだと思うので、手紙や葉書が無くなることはないと思う。但し、減るのは間違いない。
 年賀状のことに少し触れたので、年賀状についてであれば、それこそしばらくあっていない友人や知り合いに対しての近況報告等のためにあるのはいいとしても、年始の休みが明ければ会う上司や同僚、友人に出すのであれば、メールで十分だろう。
 メールだから心がこもらないと言うことはない。逆に言えば、年賀状だから心がこもっているわけではないのだ。
 メールが生まれて、さらに携帯メールが日常的になることで、メールができれば、多くのことがメールで済む。携帯電話の普及で、一人1台に近づいているので、電話も昔に比べて気軽だ。それでもメールは、電話に比べるとさらに気軽だ。
 電話はその人の時間を制約するが、メールであれば相手の都合で読んでもらえるし、記録も残る。
 携帯電話の機種変更の時に、メールの内容が移せないのはそういう意味においても、不完全なサービスと言わなくてはならない。パソコンは難しいか簡単かは別にして、自分でデータを移行することができる。携帯電話も、それができるようにするべきだ。
 さて、手紙や葉書による通信が減っていけば、自ずと郵便事情は落ち込んでいく。民営化したところで、その事業が活況を呈することはない。しかし、現在ではまだ親書として他の運送事業者が扱えないものを扱えるようになれば、非常にありがたいことだ。サービスの質も向上するに違いない。
 
 手書きの手紙をありがたがることは、悪いことではないが、手書きだから心がこもっているとか、真心が伝わるとか、そんなことはまやかしだし、達筆という文字は得てして読みづらい。文字のそもそもの使命が、情報を伝えることにあるなら、書道という芸術とは違い、手紙や葉書の文字は達筆よりも読みやすさをこそよしとすべきだ。
 社会は様々なことで変革を遂げていく。変化が全て良いわけではない。しかし、よどんだ水が濁るというごとく、変化のないのはあまりいいことではない。
 伝統伝統といいながら、歌舞伎などでも、どんどん変革は進んでいる。
 手紙がメールに変わるのなど、むしろいい変化だと思う。
 最近文字を書かないので読めるが書けない現象が起きている。私など典型的なそれで、手紙の効用はそんなところにはあるのかも知れないが、手で打てば出てくる時代に、読めさえすれば書けなくてもそれほど困りはしない。沢山の辞書を持ち歩くことだって可能なのだから。

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