9.11は今度の衆院選選挙だが、それよりも、4年前の衝撃的なアメリカへの同時多発テロから4年目の11日だ。
今日の日本テレビのバンキシャ!で、当日の消防の無線のやりとりを放送していた。まさに涙無くしてみられない、悲惨で、悲劇的な数時間の様子が甦ってきた。
テレビは、この衝撃的な事件を、映像で、世界のどこでも見える形で保存している。実際に旅客機がビルに突っ込み、崩落するまでを、いつでも見ることができるのだ。映像としては、広島への原爆投下や、イラク戦争の様々な光景と同じように、現実と虚構の区別のつかないようなリアルな映像だ。リアルでありながら、その被害の渦中に自分が以内という虚構性は、人をわずかでも不感症にする。
テロという悪夢は、ある程度以上の人間がいる世の中では避け得ないのだろうか?旅客機に乗っていた犯人は、自らの命を賭して、ビルに突っ込ませたのだ。単なる殺人とは訳が違う。どんな意志や思想や、人生がそれを可能にしたのかを、どれだけの人が知っているのだろう?もちろん私も知らない。
アフガンや中東のテロリストが棲む地域は、イスラム教の地域だ。原理主義とか、一部の過激な集団が、根底にイスラム教を持ちながら、過激な思想に走るには、それでもなにがしかの理由があるはずで、だからといって曖昧にしか我々には理解できない。
例えばオウムのサリン事件のような、どちらかというと狂気と集団心理的な部分から発生したテロリズムとは、根本的に何かが違っているように思う。もちろん、テロリズムなんていいわけはない。単純に考えて、自分がいつその犠牲にならないとも限らない天災のような事に、人の意志が働いているとしたら、やはりその災いは忌むべき行為であり、許してはならない。
だが、では対テロという形で軍隊を送り、力でねじ伏せ、制圧することがいいことかと言えば、それだって、その地に自分が住んでいるとしたら、絶対にして欲しくないことだ。そもそもそういう大国の姿勢で世界情勢は現代を向かえてきたのだ。
もちろん、ヨーロッパの文明が世界に先立って発達し、科学的にも軍事的にも力を持っていたことが、世界進出となり、植民地支配になり、アジアやアフリカ、アメリカ大陸などの悲劇を生んでいるわけだ。もちろん、悲劇的なことばかりではないとしてもだ。
アメリカは、結果的にその広大な大地をヨーロッパからの移民が制圧することで、フロンティアというきれいな言葉の下に、大国を作り上げた。その子孫は当然、先祖のそういったスピリッツを誇りに思うだろうが、所詮は征服者でしかない。そして良きにつけ悪しきにつけ、いまだに何らかの形で世界各地を威圧しているし、長く威圧してきたのだ。
齟齬というのは、与える側と受ける側、どちらが悪いにせよ、関わりを持ち続けるのであれば解消しなくてはいけないものだ。
イラクで、千人を超える米兵とともに、数万人のイラク人が犠牲になっている。フセインの独裁の時とどちらが地元の人にとって幸せなのか、政治家の報告を聞いても信憑性には欠ける。
イラクにはそもそも宗教的な対立がある。信じていない者には、理解できない原理や発想で生活をしている人たちが沢山いるし、その中でも大きく解釈が違ったりしているわけだ。
郵政を民営化するか否かで、侃々諤々なんていうのは幸せな論議だが、それでさえ人の考え方は全く違う。大国が民主主義を標榜して他国にそれを与えるのが民主主義には思えない。
北朝鮮が核など持って欲しくはないが、大量の核兵器を持った国と、少なくとも原発のような核施設を持つ日本などが、会議という席上で、核関連は何も持つな、ということを言うのは、どうも説得力が弱い。
世の中はこういう風にできあがっていると言えばそれまでのことだが、広島への原爆投下は大きな問題的がされても、東京の大空襲などは戦争の一環として同じような形では取り上げられないのと同様、世の中のあらゆる事は、考え方の根底に何を置いているかを共有しない多くの人たちの議論で錯綜しているわけだ。
そもそもこのエントリーを書くために、結論を考えていなかったので、何ともはやまとまりの付かない終わりと言うことになってしまった。
何はともあれ、世界平和が一日も早く訪れんことを祈らずにいられない。