由比敬介のブログ
年賀状
年賀状

年賀状

 今頃に年賀状を書いている。まあ、例年こんなものだが、毎年年賀状を出すのをやめようと思いつつ、なかなか踏み切れない。
 一つには、「挨拶」としての賀状に、少しばかりは意義を認めているからであり、もう一つは、メールにしようと思っても、全ての人がメールを扱えるわけではないからである。
 ちょっと賀状の成り立ちを調べてみた。
 そもそも年賀というのは還暦や古希などの事で、高齢を祝うと言うことだったらしい。それと、昔の(平安とか書いてあった)、正月の15日までに、いろいろな人に挨拶をするという風習が、郵便事情で、年賀状に変わったと言うことらしい。つまり、いちいち挨拶に伺わずとも、手紙ですませてしまえ、ということと、遠方の人にも挨拶ができるという二つの点で、郵便は有用だったわけだ。
 そう考えると、いずれはメールや電子的なものに主流が変わっていく、今は過渡期なのだろう。
 人間というのは不思議なもので、節目とか、儀礼とか、作法とか、どこの国でもそういうことがある。
 私は根本的に、それらの大きな理由には、支配者が箔をつけたかったという大きな意味があると思っている。人より優れていることを他者から認められるために、儀礼や作法、等の伝統的な決まり事は、形式として成り立ってきた。
 ある意味年賀状もその例に漏れない部分がある。
 私は自分で、礼儀知らずだとも、それほど非常識だとも思っていないのだが、自分がそうでないことと、そういうことに対してどういう考え方をしているかというのは別の話だ。
 なぜ人は、生まれたのが早いというだけで、年長者に対して礼を持って接する必要があるのか、このことは、昔から謎であり、今でも謎だ。
 年齢が判って相手が年下だと気づいたとたんに「ため口」になる人は少なくない。意味が分からない。
 年上かどうかはこの際問題ではないと思うのだが・・・・
 まあ、そんなこんなで、そういった単純な「意味」を年賀状に求めると、年末の忙しい時期に、何十枚者年賀状を作るのはそれだけで大変なものだ。比較的私は少ない方だ。メールですませる人も多い。
 メールとはがきで、はがきの方が心がこもっていると思ったら大間違いだ。どちらも儀礼だし、どちらも相手次第で心はこもるのだ。メールだからいい加減なわけではない。
 まあ、何年かかるか判らないが、郵政公社に恨みはないけど、絶対いつかやめてやる。・・・生きているうちに。

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