由比敬介のブログ
父親
父親

父親

 先週は訃報が重なった。いや、自分の回りではなく、テレビニュースなので、特別なんだというわけではない。青島幸夫などは、テレビでも言っているし、自身でも言っていたようだが、大変充実した、幸せな人生だったようだ。だが、まだちょっと若いと言えば若い。
 カンニングの中島はさらに若い。ぼくがすでに10年以上も前に通過してきた年齢だ。むしろこちらの方が、こころにくるものはある。
 さて、父が亡くなってから、あと一月ほどで3年が経つ。
 肺を患って、結果的にはなくなったのだが、50年以上にわたって、ヘビースモーキングを続けてきた結果でもあったろうと思うが、40代でガンも患い、生きてきた時代を考え合わせると、それなりに大変な人生でもあったのかなと思う。
 3年前、父の葬儀の時、長男であるぼくが喪主を務めた。
 父の死に際して、1回も泣かなかったし、悲しみもそれほど無かった。薄情な息子だと自分でも思ったが、取り立てて父と仲違いしていたわけでもないので、父の死を喜んでいたわけでは、もとよりない。
 喪主は大変だからと、回りは言ってくれたが、そういうわけでもない。
 仏教の経典の中に、赤ん坊を死なせた女の話が出てくる。赤ん坊の死を受け入れられない母親が、釈尊の元を訪れると、「誰も死んだことのない家から芥子の実をもらってくる」ように言われ、母親は、1軒1軒、町を巡り、芥子の実をもらおうとするが、誰も死んだことのない家はなく、そのことで母親は、自らの子に訪れた死が、誰も避けることのできないものだと悟り、釈尊に帰依するという話だ。
 この話を見ると、ぼくはいつも二つのことを考える。先日も瀬戸内寂聴の本でそれを見かけ、同じように思った。
 一つは、赤ん坊の死と、成人の死、老人の死は、自ずと意味が違うだろうと言うこと。
 確かに人は生まれたからにはいつかは死ぬ。キリストの死などは、ある意味、「不死」であるかも知れない神の子を、永遠に生かさないための十字架だったのではないかと勘ぐりたくなるくらい、死は当たり前のものだ。
 信長が好んだという敦盛の有名なくだりには、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を受け、滅せぬ者のあるべきか」とある。
 その当たり前の死は、例えば太陽にあっても、50億年とも言われる後に予告されている。
 この世に生まれて赤ん坊の内、いや子供の内に、死を迎えることが、平均寿命前後まで生きる者、あるいはまだ生きる可能性を秘めている者の死と同等であるはずはないだろう、ということだ。
 だが同時に、この釈迦のやりようは、誠に臨機にかなっており、だからこそ母親は出家するのだ。
 つまりは、この死の理不尽と、ではその理不尽を変えることができるのかという現実との狭間で、母親に何が大切なのかと言うことを諭すには、この場合最も適切だったのであろう。
 それでも尚、人の死は、その年齢によって、軽重があるとぼくは思っている。とは言っても、年齢が若い方が単に痛ましいと言っているわけではない。当然のことながら、生きた年数だけで人生の価値が決まるものでもないし、一つの指標に過ぎない。
 平均寿命くらいまで生きられれば、取り敢えずはいいだろうという漠とした価値観を持っている。
 そう言う意味で、父はよく生きたと思っていた。最後の数年はほぼずっと入院したきりだったし、辛いことも結構あったのだろうと思う。だが、前述の敦盛ではないが、父の死は、簡単に受け入れられた。悲しくもなかった。
 その父のことを時折思い起こす。
 亡くなってからもあっという間に時は過ぎていく。
 生前に、こうしてやれたらとか、こうできたら良かったのにな、という気持ちを時々感じる。後悔とか、そういうのではなく、純粋に、そう思うだけのことだが。
 ぼくには子供がいない(その前に嫁さんだろうと、つっこみが入るが)。だから、父の心情、とりわけ息子に対するそれを、想像以上に理解することは難しい。
 だがそれも、だからどうしたということではあるのだ。
 この世のことは泡沫のようでもあり、もっと何かこう、ものすごく何かが詰まった固まりのようでさえあるとも感じる。いずれにせよ、長くて1世紀、太陽の50億年に比ぶべくもない。
 ただ、ふと、父のことを思い、何かそれについて書きたくなったのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です