「日本語はなぜ美しいのか」という本

 を読んだ。著者は黒川伊保子という女性だが、わたしと同い年だ。
 別に同年齢だから買ったわけではないし、読む前は、「美しい国」じゃないが、歴史と精神論じみていたらどうしようという気もあった。何しろわたしは、本を買うときにほとんど内容を読まない。良くて目次をめくる程度だ。概ねタイトルで選ぶ。
 日本語はなぜ美しいのか?この問いかけが、実は、「我々日本人にとって」というかくれた形容を伴っていることで、この書籍はとても楽しく読めた。
 母音を基調とした日本語が持つ語感と感性の関係や、民族性の違いみたいなものが、その全てを頭から信じるわけではないけれど、非常に説得力のある形で提示されている。
 しかも、学術や科学的にこうだという決めつけではなく、なにやら著者の希望みたいな表現に走っているところが、やはり日本人の心をくすぐるのだ。
 英語が国際語なら、英語を話せた方がよりいいが、この本では、幼少期から英語を学ばせることへの警鐘を鳴らしている。確かに、いくら国際人に育てたいからといって、日本で暮らす以上、日本語をおろそかにして英語を学ぶというのは愚の骨頂であると思う。
 ただ、そういう人文的な論理理屈ではなく、科学的な理由からこの本はそれを危惧している。
 とはいえ、中学生から英語を学んで、果たして今後も、どれだけの人が英語に堪能になれるだろう?
 数学に好き嫌いがあるように、語学にも得手不得手はあると思う。また、環境だって必ずそれを許すわけでもなく、中学生からだと遅いと考える親が居ることも無理からぬ事だと言える。
 だが、世界政府でも樹立されるようなSF的未来が、21世紀になっても実現されないという事実が物語るように、英語が世界の共通語として、他の言語を駆逐ししてしまうとはとうてい思えない。
 東南アジアなどの国で英語がよく使われる一つの理由は植民地だったからだろうし、いわゆる中国語を話す人類は、全人口の2割くらいはいるのかも知れないし、英語が表面上、世界の単一言語になるなどというのは想像できない。
 であるならば、日本という島国は、これからも微妙な変容を超えつつ日本語を話していくだろうし、日本語と欧米語の混交というのはあり得ないだろう。日本語はどこまで行っても日本語だ。
 千年先の日本語が千年前の日本語と現代語ほどに乖離していないのは、想像に難くない。
 そう言う意味では、この著者が巻末で述べる希望は、少なくとも、大きな天災や戦争など、何らかの理由で日本という国家が壊滅的な打撃を受けない限り、成就されることだろう。
 もちろんそれだって、何億年も先まで安泰なはずはないと思うが。
 この本の中で「私は、以前から、「自然保護」「地球を守る」という言い方には、どうも違和感があった。」という行がある(関係ないが、先日タモリの何とか言う国語を扱う番組の中で、この「行」という漢字の読みを全て答えよというのがあったが、その中に今わたしが使った「くだり」という読みが含まれていなかった。辞書を引いても載っているのだが)。
 さて、そのつまりは自然保護とか地球を守るというのが、実は言葉こそ自然や地球が主体となっているが、本質的にはその主体は自然でも地球でも、生物ですらなく、ただ単に「人間」であるということが、この言葉の意味であると、私も以前から感じていたことだ。
 まあただこの本では「自然保護」という言葉を日本人の言葉ではないような書き方をしているので(趣旨はそうではないと思うが)私が言うのとは方向性が少し違うが。
 
 地球温暖化も、自然破壊も、これまで先進国が率先して行ってきたわけで、二酸化炭素の排出の規制も、環境汚染の改善も、地球環境のことは、日本も含めた先進国が率先して取り組むべき事で、分けてもアメリカが第一線で行わなくてはいけない。
 それができるまでは発展途上国はあくまで努力目標だ。北朝鮮に核廃棄を求めるのは感情的にも、政策的にも理解できるし、間違っていないと思うが、だが、それを求めている国の内、米中露という三カ国が、大量の核兵器を所有していることは、そもそもおかしな事ではないか。
 物理的な問題や、世界のバランスの問題など、様々な理由で既存の核保有国が核を手放せない現実は現実として、そのことをあたかも当然であると考えて生きていくのは、どうも納得のいかないことだ。
 同様に、自然保護や地球を守だって、そもそも地球の組成と人間の組成だってそれほど違っているわけでもなく、自然の対義語として人工という言葉を使うのも、絶対的な意味があるわけではない。人が勝手に決めているだけだ。
 きっと神の目線から見れば(この場合、地球人や一部の民族、進行をしている人たちなど、特定の人たちのための神ではなく、宇宙をも包含する客観的な第三者という意味だが)、恐らく全ての人為的なこともまた、自然の営みの内に他ならないのではないかと思える。
 人が争い滅びるのも、贅沢三昧で寿命を縮めるのも、気が育ったり、風が吹いたり、隕石が落ちたりと、何ら変わることはない。人為もすなわち長い歴史の中で風化していく岩の変化を、短時間で起こしているだけなのだ。風化させる風や雨の営みと人間の意志や興味はたぶん同じものだ。
 そう思えば、自然保護や地球を守るという視線ではなく、人類がこれからも平和に楽しく生きていくためには、地球環境をどうしていくとか、そう考えた方がずっとすっきりする。高邁な理想論ではなく、部屋の住み心地をよくすると同じ事だと考えればいいことだ。
 この自然保護の行にある「鯨を愛しつつ、泣きながら銛を打ち、だからこそ命を余すところなくいただく・・・・という日本人の感覚」などというのは、かなり日本人を美化しすぎているし、そもそも鯨を捕る漁師さんがいちいち鯨を撃つたびに泣いていたら身が持たないだろうし、では牛や豚はどうなるということだし、ゴキブリはいたら駆除するだろうということなので、これはもはや民族ではなく、個人的な感性の違い以上のものではない。
 とはいえ、鯨やイルカが知能が高いという理由で保護しようとする人たちが居るとしたら、それは学歴社会と一緒で、おつむの程度で生きる価値を査定しているようなものだ。極論すれば、命を奪う(食うためとか生きるために)事が禁じられるのは人類だけに限定されるべきだ。猿の惑星ではないが、「猿は猿を殺さない」のであり、名分で人類ですら殺し合う、この成熟していない人類が、鯨やイルカを守るのは、結局は自分たちの都合や興味でしかないのだ。
 日本語が美しいかどうかとはかけ離れたお話になってしまった。
 日本語が美しいかどうかは別として、美しい日本語を使いたいと思う。但し、私が言う美しい日本語は、きっとその言葉で他の人が理解するのとは、いささか趣を異にするだろうな。
 それはまたいずれ。

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