アフガニスタンでNGOの伊藤さんという方が亡くなった。
志高く、人に尽くされた方が亡くなるのは、知人でなくても、一入悲しいことだ。
人類が生まれてこの方、おそらく、人が死ななかった日というのは無かったに違いない。常にどこかで誰かが死んでいる。生を受けたからには、死は逃れることのできない決まり事だ。人生が尊いのは、死があるからだともいえるし、人生は常に死への行進である。
自殺をしなければならないほど苦しい生は、おそらくある。想像もできる。
しかし、そうでないならば、人は生きたいと願う。人には寿命というものがあるから、寿命が近づけば、ある程度の覚悟も、諦めもつくだろう。
だが、若い死はそうではない。
若い頃のぼくを支配した言葉がある。
One lives but once in the world.-人はこの世に一度しか生きない
英語を勉強するために父が買ってくれた、世界の偉人の言葉を英語に訳した本の中にゲーテの言葉として掲載されていた。
もちろん、だからこそ悔いの無いように生きるべきだ、ということが書いてあったような気もする。
だがむしろぼくには、この唯一の生という不思議な環境の、何にも増して貴重である様だけがずっと頭にこびりついて離れなかった。
歴史の中で、人を殺すことで多くのことが得られてきた。領土、金、幸福・・・それは、個人の殺人から、戦争に至るまで、大量の死が、何かを生んできたのは実は事実だ。だがそれは、殺害された命という代償としては引き替えようのない、まったくバランスのとれないギブアンドテイクだ。
多くの戦争を重ね、それでも近代、二つの世界大戦を起こした先進国だが、未だにあちこちで戦争を起こしている。
背景に宗教がある戦争も、飢餓や貧富の差、政治的対立、あらゆる理由の戦争が、すでに何度も行われ、その都度戦争が悲惨であることは語られてきたはずだ。
人類が成熟すれば、戦争が無くなると思っていた人たちも多いに違いない。だが無くならない。
ましてや、発展途上の多くの国は、文明社会がそれまで歩んできた道を改めて歩んでいるように、戦争が尽きず、テロという形で、地中深く潜行する。
アフガニスタンやイラクのように、ついこの間、大国が爆弾の雨を降らすことで、形だけの政府を作り上げた国は、我々に比べると、殺人のハードルがきわめて低い。何故なら、生まれてこの方、身近に大量の死体を見続け、しかも戦後の日本のような復興を実現できていないからだ。
しかもここ日本においてでさえ、ニュースで殺人事件の報道を見ない日はきわめて少ない。
人が人を殺すという、日本で生きていれば、多くの人が、ほとんど関係なく思ってしまうことが、その日本でさえ、毎日のように起こっている。ましてや内乱や、空爆さえ続く国家で、起こらないはずもない。
そんなところへ行って、地元の復興のために尽くすなどということが、できるだけでもすごい。
だからこそひときわ悲しい。
この世から、争いをなくすなどということはおそらく、無理だろう。
だが、戦争を無くしたり、テロや内乱をなくすことは決して不可能ではないに違いない。
でも、チベットなどのように、国家が国民を、国家のために殺害しているうちは無理だ。
領土問題で戦車が町を破壊しているようでは無理だ。でもこれらが文明社会の姿だ。
我々は20世紀から21世紀にかけて生きている。
日本にも戦国時代はあったし、どの国だって、個人的な殺人から、国家による国民殺害まで、無かった国などおそらく無い。
でも、もしかしたらその時代よりは、少しはましになっているのかもしれない。そう思いたい。
意志の力の結集が、この世から、こういった無益な殺人を少しでも減らせるなら、力を尽くしたい。
日本人だけでなく、どの国の人が亡くなっても、悲しみは同じだ。
だが今日は、まず伊藤さんの冥福を祈ろう。
初めまして。
One lives but once in the world.-人はこの世に一度しか生きない
英語に翻訳されていた本の名前、教えていただけませんか。
今の自分にとても必要な物のように感じるのです。
よろしければご連絡ください。