由比敬介のブログ
猫まんま
猫まんま

猫まんま

 本日、飲み会で猫まんまの話になった。参加者の一人がいわゆる猫まんま-ご飯に味噌汁ぶっかけ-を食べたことがない、という話からで、確かに、世の中では、猫まんまというのは行儀の悪い食べ方というのが一般的なようだ。
 という話を書き始めて、不審に思い、ちょっとググってみた。
 教えて!ティーチャー先生というサイトに行き当たった。
 これを見ると、一口に猫まんまと言っても、微妙に認識が違う場合がありそうな感じもする。
 今では猫の飯にキャットフードという人の方が多いかも知れないが、犬や猫にいわゆる猫まんま的な人様の食べるものの一部を食べさせるというのは、かつては普通だったはずだ。ぼくの実家でもかつて犬を飼っていたときには、そうだった。ドッグフードを上げたことはまずない。
 さて、ところでなぜ猫まんまは行儀が悪いと言われるのだろう?じっくり考えれば考えるほど、解らない。
 食事のマナーにしても、その内の多くが、必ずしも納得がいくものではない。
 昔、どこかの時点でそれを言い出した人が必ずいるはずで、確かにそれが時の流れの中で定着してきたという側面は認めるが、同時に時の流れの中で変わっても、何ら不都合がないことが多い。
 例えば箸の持ち方だが、いわゆる正しい箸の持ち方が、すべてではないはずだ。もちろんその持ち方を否定もしないし、その持ち方を子どもに教えるのもまったく異論はない。だが、その持ち方ができていない人がいたとしても、そんなことはどうでもいいではないかと思う。その人が良ければそれで何の問題もない事柄ではないだろうか?
 行儀とは、作法に合致しているかどうかの基準であり、作法とは物事の習わしであり、すなわち慣例に照らし合わせて、それに合っているかどうかの判断ということになる。
 それこそ、茶道や、華道などその世界がある作法を基準に成り立っている、ごく限られた場であれば、それに従うことが、その道を行くことになるのであれば、その限られた世界観の中で、それを守ることは、とても重要なことであろう。
 だが、世間一般の中で、過去の慣例をもってこれが正しいかどうかということを、飯の食い方、席の座り方など、それほど規定しなくてはとうてい思えない場にまで持ち込むというのはいかがなものだろう?
 ある意味これは権威主義とか、階級社会とか、何かそういうものと裏腹に存在している部分も少なくないように思う。
 日本であるから、手づかみで飯を食うなとか、人前でしない方がいいことの曖昧な基準というのは自ずとあるだろう。もちろんそれだって、いつ変化していくか解らないが。
 だが、時折テレビ番組で見かけるマナーを語るおばちゃんを見ていると、それはそれで結構だが、そうでなくても別段問題はあるまい、と思えることが多いわけだ。
 猫まんまも実はその類で、ご飯と味噌汁を別に食べても、かけて食べても、食べる人のかってだろう、という程度のお話だ。カレーライスだったら、誰も別々で食べろとは言わない。うどんやそばもそうだ。なぜ味噌汁とご飯がいけないのか、まったくそこには理屈がない。理由はもちろんあるに違いないが、理詰めで論破するだけの効力があるとはとうてい思えない。
 別に、猫まんまを行儀が悪いと考える人に、その考えを改めろなどとはいう気はさらさら無い。それはそれで結構。ただ、ぼくはそう思わないというだけの話だ。
 味噌汁にご飯を入れ、その上に納豆をかける。これはとてもおいしいのだ。
 行儀が悪いなどという、とても説得力のない言葉で、その食べ方をやめることはない。
 ただそれだけのことだ。ぼくは箸の持ち方も下手だ。まったく普通の持ち方ができないわけではないが、その方が食べづらい。だからちょっとヘンだ。でもそれでおいしく頂ければ、何の問題があろう?
 何でもかんでも合理的なことがいいとは言わないが、理に適っているということに、あまり悪いことがないのも事実ではないだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です