先日新しく法務大臣になった鳩山邦夫氏が、記者会見で以下のようなことを述べた。
「凶悪犯罪の未然防止に果たす役割は大きい。死刑制度をなくせという意見にわたしはくみしない」
「死刑を科すと裁判所が判断すれば、わたしは重んじる」
また、それより前、直前の法務大臣は10人の死刑執行を行って、93年以降最多となったらしい。
法の下に、国が犯罪者の死刑執行を行うのは、少なくとも現在の日本では、法的に間違っていない。
上記の長勢前法務大臣の執行命令に対して、社民党や亀井静香衆議院議員などの、死刑反対論者は、早速抗議したらしい。
山口県光市の母子殺害事件で、テレビの報道などを見ていると、新たに結成された大弁護団は死刑廃止のためにこの裁判を利用しているなどという論調が目立つ。
人が人を殺すというのは、人生が一度しかないことを考えたとき、自分の人生を他人の容喙で決められることの理不尽さや、嫌悪敷衍することで、明確に「犯罪」とすべきは論を待たないと思う。
本来は、個人が個人をいかなる理由によっても殺害することは良くないし、国家が個人に対して同様なことを行うのも、同じ理由で良くない。さらに、国家が大義名分を持って他国民を殺害するのもやはり良くない。
基本はそうであるはずだ。
しかし、ふと考えると、ハリウッド映画などでは特に顕著だが、大量の悪人が、銃で撃たれて死んでいく。中には、悪人の元で働いていたからと言って、その個人が果たしてどれほどの悪に手を染めていたか解らない人間まで、次々にヒーローの弾丸の下に斃れていく。
ハリウッドばかりではない。国内のドラマだって、映画だって、たくさんある。
宇宙から攻めてきた宇宙人や怪獣を、ウルトラマンや仮面ライダーは、殺害という手段で排除していく。
根本にあるのは勧善懲悪だが、この懲悪の内訳は、死をもって償えという考え方に他ならない。
死刑に関しては、そのものの是非は別にしても、いくつかの問題がある。
まず、どんな罪が死刑に相応しいかという「量刑」という問題。
そして、本当にその被告がその犯罪の犯人なのかという、「冤罪」の問題だ。
冤罪で死刑になったのではたまらないからだ(死刑じゃなくてもたまらないが)。
であるから、死刑に関しては慎重でなくてはならない。
とはいえ、正当防衛や、それ以外の道が考えられないほど、相手から肉体的、精神的な虐待を受けていたなど、常識的に見て酌量の余地がある場合を除いたいわゆる恋による殺人事件に関しては、死刑ということが考慮されてしかるべきであると思う。
死刑廃止ということの根本にあるのが、更正とか人権とか、そういった被疑者を養護する考え方である。
先日、酒によってタクシーの運転手を殴り殺したという犯罪があった。
人を何人も銃で殺したり、サリンをまいたり、殺人にも確かにレベルの差異がある。タクシーの運転手の件は、それに比べたら、大きな事件ではない。・・・ニュースとしては。
あるいは、これから何十年もある子供の命を奪う殺人と、余命せいぜい10年の老人を殺す事件とでも、何となく罪の大きさは違うように感じる。
だが、銃で殺されたり、年齢がいくつであったり、殺した犯人が警察官であったりと、事件は様々だが、では、殺された人間が自分であったらと考えたらどうだろう?あるいは自分が一番大切にしている人だとしたら。
タクシーの客も、サリンの犯人も、違いは無かろう。
少なくとも自分がその立場で、あの世から犯人を裁けるのなら、その人間に生きて更正など望まない。
殺した相手を殺すことで、殺された人間が生き返るわけではもとより無い。覆水は盆に返らない。
だから、死刑が無意味だというのは、本来生きている人間のための考え方だ。あるいは、自分が殺されても、殺した犯人を殺すことが意味のないことだから、死刑にしないで欲しいと考える人間も多くいると思う。
しかし、人をあやめる罪は、命をもって意外に償えるのだろうか?
人は人を故意に殺した時点で、人権を失ったとは考えられないだろうか?
たとえそれが若くても、少なくとも殺人が悪いと解る程度の年齢であれば、彼、あるいは彼女に、更正という今後の人生は必要だろうか?
必要だとする人が、必要だという論理を構築されても、恐らく私は納得し得ない。
殺人を死刑をもって償うというのは、ある意味因果の理法のようでさえないだろうか?
この世に生まれ変わりなど、たとえあったとしても、過去の記憶がない限り、無いのと同じで、少なくとも前世の記憶をもった知り合いが、私にはいない。全ての知人は、この世に一度しか人生を持たない。
放っておいてもいつかは死ぬ。
だが、人為的に殺害された人間の最低限の権利として、殺害した人間の生殺与奪の権利があるとしたら、死刑は決して無駄ではない。
死刑廃止を訴えている人々は、死者の思いを、どのように受け止めることができるのだろうか?