由比敬介のブログ
中国
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 中国で大規模なデモが起きて、日本大使館が襲われたり、在日企業や、日本人も被害に遭っている。
 事の是非だけをいうなら、器物を破損したり、人に暴力をふるったりと、いいわけはない。
 日本政府の謝罪とか、戦争に対する自己批判みたいなものが不十分だとか、首相の靖国参拝だとか、原因はいろいろあろうが、見ていて思うのは、人間というものの脆さだ。
 そもそも人を戦争に駆り立ててきたのは、欲望や高邁な理想、ことは何であれ、自己と他との比較に於いて、自己を優先せざるを得ない人間の愚かさなのだと思う。ここでこれを愚かさなどというと、非常に突っ込まれどころ満載の表現かも知れないし、所詮はブリュンヒルデだって、自己犠牲したのは愛するジークフリートのためであって、極めて単純なものだ。おろかという表現を使うことで、人間の存在理由さえも否定していると取られかねないのは百も承知の発言だ。
 
 確かに先の大戦は、ドイツや日本の侵略戦争だったに違いない。だが、世界規模であれ国内のものであれ、基本的に侵略でない戦争などあり得るのだろうか?戦争論をするわけではなく、ケンカと同じで、必ずどちらかが仕掛けるのだ。どんな大義名分があろうと、戦争は国同士のケンカであり、しかも生死をかけた大げんかだ。
 どこの世界に、ケンカを奨励する国があろう。あるいは戦争を。
 確かに、過去の日本には中国や韓国が責めるだけの行為があったことも事実かも知れない。だが、それを理由に関係ない他の国民までが巻き添えを食うとしたら間尺に合わない。
 
 別に、非現実的であろうが、夢物語であろうが構わないが、歴史の中で、多くの物事が争いによって結論づけられてきた。これは勝てば官軍の理なのであり、北朝鮮だって結局はそういうことだ。だが、それが正しいはずはない。争いに勝つことでしか平和な世の中が得られないなんて、なんてばかげた世の中だろう。
 平和や友好は平和的で友好的な手段と経過で実現させてこそ意味があるのだ。
 政治家もよく言うが、「では北朝鮮みたいな国が、核で攻めてきたらどうするのか?」という難しい命題がある。
 言ってみれば、やくざに理屈は通用しないと言われているようなものだ。
 もちろんそれはその通りだ。刃物を振り回してやってくる狂気に、まあ話せば解るという人はいない。
 だがそれでも、常に、世界の平和は平和的に実現させると言うことを一人でも多くの人類の一員が言い続けていかねばならない。誰もそれを言わなくなったら、実現できるはずはないのだ。
 できるかできないかではなく、理想というのは常に掲げていくことしか、実現することはできない。絵空事に見えても、数が増えてくれば、現実的になるものだ。
 少なくとも私は、微力であれ、こんな場であれ、それを唱え続けたい。

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