由比敬介のブログ
「幼年期の終わり」-A.C.クラーク
「幼年期の終わり」-A.C.クラーク

「幼年期の終わり」-A.C.クラーク

クラークといえば、言わずと知れたSF界の黎明期からの巨匠で、作家というばかりでなく、科学者でもあり、相当な高齢であろうが、今でも存命である。どちらかというと表題の「幼年期の終わり」よりも、映画「2001年宇宙の旅」の原作者として、認知度は高いかも知れない。
この「2001年」でもそうだったが、デビュー作の「太陽系帝国の危機」あるいはそれ以前の「前哨(2001年の原点といえる話)」の頃から、近年の「宇宙のランデブー」に至るまで、徹底して彼のテーマの一つとして取り上げられる、宇宙の異知性、高次の知性体というものが、この「幼年期の終わり(Childhood’s End)」でもテーマの中心となっている。
今となってはちょっと古い「インディペンデンス・デイ」の映像をテレビCMで始めてみたとき、私は「幼年期」が映画化されたのでは?とちょっと思った。あのニューヨーク上空に浮かぶ巨大な宇宙船の姿は、まさにカレルレンが乗っていた宇宙船を彷彿とさせた。あの映画自体はそれほど嫌いではないが、圧倒的なスケールで描くことができたあの巨大な宇宙船像を、「幼年期」のためではなく、アメリカ万歳のために使われたのはどうも釈然としないものを当時感じた。
あまり小説をうまいと褒められることのないクラークだが、この作品は良くできている。全体は3部構成になっているが、第一部で謎を呈示、簡単に第2部の冒頭でその謎を明かし、停滞とも言える中間部を通り抜けると、一気にフィナーレになだれ込む。最初の謎など、全体を貫く思想的なテーマに比べれば些末なことという感じである。印象としては3楽章の交響曲を聴いている感じがする。
万が一この文章を読んで作品を読もうと思う人がいるといけないので、ネタバレとなる内容にはあまり触れないが、1950年代の前半という時期にこの作品を書いたクラークは、まさに生粋のSF作家と呼ぶに相応しい人だと思う。
ここにはStar Warsのような作品がSFとは思えなくなるような、絢爛たる黄金時代のSFらしさがあり、今でも私が最も愛してやまない作品の一つでもある。
「2001年」の映画のような解りづらさはここにはないし(「2001年」も小説版はそれほど難解ではないが)、真にセンス・オブ・ワンダーと呼べる工夫がある。恐らく今となっては、この作品が取り上げたそれぞれのアイディアは、古くさいに違いない。藤子F不二雄が短編で取り上げてそうな内容の組合せに見えるかも知れない。
でも、第2部冒頭の種明かしが、今ではちょっと陳腐に見えても、ラストシーンが夢物語に見えても、カレルレンが最後に言い残した一言がこの作品を非常に詩的で叙情性の富んだものにしているのは間違いない。
「・・・・我々は石女なのだ・・・・」
という訳文を充てた、早川書房版の福島正実氏の訳が秀逸だ。
そう、この作品は、地球上の各首都に、空を覆い尽くすような巨大な飛行物体が訪れるところから始まるが、侵略者と戦う大統領などという陳腐な作品ではない。常に、宇宙を見つめ、科学者としての厳しすぎる目で宇宙開発に関わったりなどしていた作者が、同じ視点で、しかし想像力を生かしながら人類に夢を託した作品なのだ。
てなことで、これからも自分の好きな作品で、面白かったものを取り上げていきたいと思う。結構古いのが多いかも。

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