デューン・シリーズを最初に手にしたのは、中二の夏、町田の大きな本屋でのことだった。石森章太郎の絵で、1巻と2巻が並んで平積みになっていた。
正直、最初は難しくてよく分からなかった。巻末の辞書を便りに読み進むというタイプの小説は初めてだった。・・・まあ、どっちみちこんなのはあまり無いが。
それを訳していた矢野徹氏が先日亡くなった。原作者のフランク・ハーバートは、20世紀の終わり頃に亡くなって既にこの世にはない。息子が続編というかデューン前夜のような小説を書いていて、それも矢野氏が訳されていた。
デューンシリーズの翻訳は、文庫本で20冊前後になるのだろうか。「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」「砂漠の神皇帝」「砂漠の異端者」「砂丘の大聖堂」で・・・都合17冊か。実は、「大聖堂」はきちんと読んでいない。「砂の惑星」から「神皇帝」までのわくわく感が自分の中でなくなっていたせいもある。
「砂の惑星」は、アメリカの評論家と読者が選ぶヒューゴー賞とネビュラ賞をダブル受賞している。多くのファンやプロからも評価されている作品である。映画化もされたし、ドラマ化もされた。多くのファンを持っているはずだが、日本では長らく絶版で、最近復刻された。表紙は映画のカイル・マクラクランになっていた。
余談だが、「ツイン・ピークス」で有名になったカイルの映画で私は「ヒドゥン」が好きだ。何かの映画賞を取っていたと思うが、なかなかDVDが出ない。
さて「砂の惑星」だが、これは遠い未来の話、銀河系に人類が散らばり、皇帝シャッダム何世だったかの時代に、砂の惑星と呼ばれるアラキスという星に領地を変えさせられたアトレイデ公爵(映画ではアトレイデスと言っていて字幕もそうなっていたと思うが、これはアトレイデ家という意味ではないのかな?)は男爵ハルコンネンの奸計にはまり、殺害されてしまう。辛くも逃れた妻のジェシカと息子のポウルは、アラキスの砂漠に紛れる。という始まりで、そこまでの間にも、多くの専門用語の説明を読みながら物語を追っていかねばならない。
非常に心理描写の多い作品だが、裏腹に非常に活劇的でもある。映画にしたときに、なぜかスター・ウォーズのようになってしまうのはそのせいであろう。
最も設定自体が宇宙の帝国という設定の中で、貴族が争うという基盤を持っているのでやむを得ないところもある。宇宙へ言っても公候伯子男ですか?とは思ったが、それが中世的な趣を物語に漂わせる原因となっているので、意図的であろう。
しかも男爵の名前がウラジミールって、冷戦ですか!
しかし砂漠の惑星はナウシカが乗りこなしそうなサンド・ウォームと、その砂虫が生成するメランジという麻薬のような香料が大きな鍵を握り、神話的な世界へ入っていく。メランジはあたかも大航海時代のインド貿易の香料のように、莫大な富を約束する。
砂の民フレーメンはまるでアラビアのロレンスを彷彿とする。
そしてメランジの毒性がポウルを予言者に引き上げ、皇帝の地位も与える。ポウルの正妻は皇帝の娘だ。だがポウルの子を産むのはフレーメンの娘チャニであり、ポウルの跡を継いで神皇帝となるのは二人の間にできた双子の男の子の方、祖父の名を与えられたレト・アトレイデである。
予言者皇帝となったポウルはめしいとなって砂漠をさまよう。
この辺りはまさにキリスト教的な感じも受ける。
「砂の惑星」はよくその生態学的な描写や設定を高く評価される。確かにアラキスは細部までよく描かれていて、非常に読者の頭にその姿を鮮烈に投影してくれる。
だが、ストーリーは冒険譚であり、宗教的な政争の物語であり、何よりSFである。
ここまで述べてきたように、非常に多くを地球上の自然や文化、歴史、宗教などに負っている。だがそれがも真似にならずに、オリジナルの世界観を形作っていることがこの作品の成功の秘訣であろう。秘密結社のようなベネ・ゲセリットも非常にいい味を出している。女だけの超能力者集団のようなこの教団は、ジェシカもいたのだ!
多くの人は「砂の惑星」が全てだと(作品の評価として)思っているかも知れない。が、私は「砂漠の神皇帝」まで、素晴らしくよくかけていると思う。その後は、エンターテインメントよりも、作者自身が描きたいこのシリーズの深い部分に話が移行していて、地味であるからだ。
歴史に残る作品だと思う。
また読もうかな。勢いが必要だな。・・・昔のやつはぼろぼろだし。
映画「砂の惑星DUNE」と「スパイス」の関係
私も、砂の惑星DUNEが好きです。私のサイトには今フライドチキンのレシピ研究でスパイスを扱っているので「砂の惑星」を思い出したしだいです。