読書の悦び

 このところ読書量が減ったように思う。
 元々それほど大量に読書をする方ではないし、ジャンルも偏っている。
 そもそも、読書を始めたのはいつのことだろうと考えると、本格的に自分の意志でそれを行ったのは小学校六年生の頃だ。それまでは、読書は大嫌いだったし、夏休みの感想文程度しかあまり読まなかったのではないかとすら思う。少なくとも、何を読んだかの記憶がない。残っていないのだから読んでいないのと一緒だ。
 そんなぼくを読書に誘ったのは、このブログでも過去に書いたと思うが、友達から借りた偕成社の子供向けSFシリーズだ。ankokusei.jpg
 中学へ入ると、子供向けじゃないものが読みたくなって、初めて買ったのが、アシモフの「銀河帝国の興亡」第2巻だった。なぜ第2巻から買ったのかは、おそらく、第2巻から登場するミュールという超能力者のせいだ。
 当時ぼくは「バビル2世」が大好きだったから、それも影響していたと思う。
 さすがに、何が書いてあるかよく分からなかった。
 読書経験の少ない子供にとって、文庫本というのはとてつもなく難しく、内容はほとんど理解できていなかったと思う。その証拠に、銀河帝国の1巻と3巻は、高校生になるまで購入しなかった。
 ただ、慣れてくると面白いもので、いろいろと読もうとし出す。
 たぶん中学の後半から高校時代は、早川の文庫と大判のSFシリーズ、創元推理文庫のSFを中心に読み、「レ・ミゼラブル」「三銃士」のおかげで岩波のフランス文学を順番に読んだ。
 それでもどうしても読む気にならなかったのが日本文学だ。自分自身が読んだことがある、学校で教わるいわゆる日本文学は、簡単に上げられる。「高瀬舟」「生まれ出ずる悩み」「走れメロス」・・・他は思い出せない。夏目漱石は「坊っちゃん」を途中まで読んだ。「吾輩は猫である」は最初の1ページだけ読んだ。川端康成も、三島由紀夫も、最近はやりの小林多喜二も読んだことがない。
 ただし、芥川龍之介だけは別だ。
 余談だが、芥川賞と直木賞は日本の二大文学賞だが、ぼくの理解では「純文学の新人賞」が芥川賞で、「大衆文学」が直木賞だと思っていたのだが、直木賞もどうやら新人賞らしい。新人と言うより、何年も作家をやっているような人がよく取ってるように思えるのだが・・・
 そして、芥川龍之介の名前を冠した賞が、どうして「純文学」に限定されるのか、ぼくには解せないところだ。芥川龍之介の作品は、ぼくにとっては純然たるエンターテインメントで、いわゆる純文学という、取り敢えずそのキーワードが付けられているだけでまったく読む気にならないジャンルの作品とは、とうてい思えないのだが。
 こんなことは、単なる言いがかりに過ぎないと思うのだが、ぼくにとっての純文学というのは、内容はあっても面白くない小説という、偏見に充ち満ちたジャンルなので、どうもしっくり来ない。
 芥川だけはそこそこ読んだ。ただし、たくさん書いている人だから、実際に読んだのはごく一部に過ぎない。
 人が一生の間に読める本というのはどれくらいなのだろうか?と思う。
 研究者でもない限り、毎日読書に没頭するとしても、学校があったり、仕事があったり、つきあいもあるだろうし、テレビも見るだろう。となれば、自ずと読書に割ける時間というのは決まってくるわけで、1日1冊などというハイペースで読めるわけがない。
 高校時代、初めてローダンシリーズを読み始めた頃、2巻から読み始めて、当時発売されていた最新刊が20巻くらいだったので、そこまで読むのに1か月かからなかったが、自分的にはもうあり得ない。
 尤も、速読とは言わないまでも読書スピードが速い人は大勢いるので、ぼくのように遅読の人間に比べたら、遙かに大量の本を読めるはずだ。
 単純に年間300冊読むと、50年間で1万5千冊読める計算になるが、それでも、僅か1万5千冊だ。インターネットで調べると、年間で出版される本の数は7万冊あるという。もちろん、再版も漫画も写真集も含めてのことだと思うから、読み物としての本はその何分の一かになるのかもしれないが、それでも、人が毎日本を読んでも、おそらく1年間に発売される本を読み切ることすら難しいのではないだろうか。
 当然、「さおだけやはなぜ潰れないのか」とか、「サブプライム後の新資産運用―10年後に幸せになる新金融リテラシーの実践」「O型自分の説明書」と、「罪と罰」「蟹工船」「西の魔女が死んだ」は、別のジャンルで、それぞれの読者層も、違っている。「O型自分の説明書」は全部読まなくても読んだうちにはいるかもしれないが、「罪と罰」の200ページから300ページまでだけ読むなどという読み方は、基本的には無いだろう。
 今回ローダンシリーズが350巻を迎え、公会議サイクルが解決しないうちに、アフィリーサイクルが始まった。このサイクルというのは、ローダンシリーズは50話で一応一区切りになっていて、それぞれの50話で、概ね一つの話が完結するので、サイクルと呼ばれているのだが、今回の後書きに、これから読む人は、ここから読んでもいいと書いてあった。
 これは、最初から読むのはたぶん無理だろうから・・・というお話だからで、でも実は、今回始まったアフィリーというサイクルでは、ローダンとレジナルド・ブルという地球のナンバーワンとツーが大きく関わっているようなので、彼らが地球というか、太陽系のワンツーである最大の理由は、1巻から読まなくては分からないし、何より、地球が現在あるのが、なぜ銀河系内ではないのか、ということも、前のサイクルを読まなくては解らないと思う。
 しかも、このサイクル中に、おそらくは前のサイクルで未解決の部分に関わる話が出てくる可能性が大きいので、続き物は続き物として、最初から読む方がいい。
 さて、とにかく、ホメロスの昔から、文学作品はたくさんあって、多くが翻訳されているし、明治以降で、普通に読める日本人の作品もたくさんある。毎日毎日、最近の作家が新たな作品を生み続けている。
 アダム・スミスの「国富論」を今読んだって、意味がない人と、意味のある人がいる。
 読書は楽しい。
 だがその楽しさは、楽しい作品を読む楽しさであり、例えば、ぼくはローダンシリーズを350冊読んでいる。これだけでも、同じ時間を他の書物に費やした人とは読んでいる内容が違っているわけだ。その違いに、例えば夏目漱石や川端康成が含まれていたとしても、ぼくは、ローダンが読めて幸せだったと感じるのだ。
 食べ物の好き嫌いと同様に、あるいは音楽の好き嫌いと同様に、書物も基本は嗜好でしかない。本は嗜好品なのだ。
 シェークスピアを研究している人はシェークスピアが好きだからやっているので、好きでない人にとってはどうでもいいことなのだ。ぼくはシェークスピアが嫌いではない。特に「リア王」「オセロ」は好きだが、やはり読んでない作品もたくさんある。
 SFだって、早川文庫や創元文庫を読破したわけではない。嫌いな作家もいる。・・・尤も、嫌いといえるのは、1回以上読んでいるからで、読まない作家には好きも嫌いもない。
 子供のうち、あれを読めこれを読めと言われるのは,決して悪いことではないと思う。ただし、投げ出した本を無理矢理読ませることはない。本には面白いものとつまらないものがあり、その基準は読者が持っている。それが子供でも大人でも同じなだけだ。
 三島由紀夫や太宰治を読まなくても、人生にさしたる違いはない。・・・いや、場合によってはあるかもしれないが、それが本人の選択によるのであれば、それでよしなのだ。
 読書の悦びというのが、人類すべてに共通しているのかどうかは解らないが、多くに共通していることだけは否めない。楽しい本を読むことは幸せなのだ。それが、人生の有り様を読者に考えさせる本でも、銀河系を遙かに超えたところで迷子になっている地球の上で、巨大なアリと交渉している話でも、どちらも価値は一緒だ。
 睦月影郎という作家がいる。官能小説家、という人だ。ぼくはエロ作家と呼んだ方がふさわしいと思うが(いい意味で)、かつて、普通の本屋にはあまり売っていなかった彼の作品が、最近は平積みされているのをよく見かける。怪しい本屋で、ビニールのかかった写真集の脇に売っていたはずの本が、一般の書店にある。多くが時代劇の装幀をしているが、内容は昔とそれほど変わっているようには思えない(立ち読みした限り)。彼の本だって、人によっては谷崎潤一郎などより、よっぽど価値があるのだ。本ていうのは、そういうものだ。
 あ、ぼくは睦月影郎はすごい作家だと思っている。しばらく買ってもいないし読んでもいないが、作品数は半端じゃないと思う。一度読んでみることは、必ずしもおすすめしないが、ぼく的には好きな作家の一人ではある。・・・内田康夫と同じくらいに。・・・・昔の内田康夫は面白かったのになあ。

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