由比敬介のブログ
帰属意識ということ
帰属意識ということ

帰属意識ということ

 星野Japanが台湾に勝ってオリンピックを決めた。
 6回に逆転されたときにはどうなることかと思ったが、やはり野球に関しては日本は強いのだな。アジアでは。
 こういうことは、一日の長みたいなことがあるようだ。日本よりはアメリカの方が上らしいし。
 ところで、試合を見ているとなぜか自分自身が日本を応援していることが解る。
 国際試合の場合、やはり多くは日本人を、たとえほとんど知らなくても応援する。
 民族自決というのは、民族毎の世界観だと思うが、日本民族というのは、どちらかというと日本という島国と日本語という言語で結ばれているに過ぎないように思える。
 というより、そもそも民族って何だ?
 広辞苑にはこうある
  

(nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲とも必ずしも一致しない。

 
 なんだかんだと言っても、結局は大きなグループに過ぎない。
 自分がどこのグループに属するかによって、そこを応援する、その感覚というのは、どれほど普遍的なのだろうか?
 実は戦争もその延長のはずだから、この何かへの帰属意識というのは面白い。
 日本国内であれば、県毎に競い、学校単位で競い、町内会で競い、個人に帰着する。
 恐らくいずれかのレベルで、これらの帰属意識が、人によって無くなることもあるのだろうが、全て無くなることはあるまい。
 オリンピック予選で、自分が韓国人だったら、と考えてみた。韓国戦のあった日曜日は、女子ゴルフの日韓戦もあった。これも日本が勝っていた。自身が韓国に住む韓国人であれば、悔しかったに違いない。
 尤も、そこには自ずとレベルがあり、ぼくの場合、「ちょっと悔しい」というレベルだが。
 それでも、スポーツなどにおけるこういう帰属意識は、あってもそれほど外にはなりそうもないが、民族って、そんなに団結すべきなのだろうかと思う。まとまるには大きすぎるし、目的も多様に過ぎる。
 貴族ということが問題になるのは、アイデンティティという言葉が通用する範囲であるべきではないか。民族のアイデンティティなんて、どうも眉唾な感じがする。あたかも血液型占いのようだ。
 血液型占いは、よく、人間が4つ程度に分類できるか、という批判があるが、男と女という二元分類があるのだから、4分類できても問題はない。だがそこには自ずと、より細かい分類にはない曖昧さが残る。
 そう考えて楽しめばいいことだ。民族や国家も、所詮はどこか、そのレベルのグルーピングに過ぎないのではないかと思う。
 文化や言語の差異はあっても、何かそれで運命が決められるような、それほどのもののはずはないと思うのだが。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です